オペレッタ「メリーウィドウ」とモンテネグロ

文・柴山 三明(ウィーン音楽研究家)

1905年12月30日、アン・デア・ウィーン劇場で新作のオペレッタが上演された。 35歳の座付き指揮者フランツ・レハールの作曲になるオペレッタ「メリーウィドウ」については、誰も期待してはいなかった。劇場監督のカルクツァクは指揮のロベルト・シュトルツに、どうせ当たるはずはないから次の作品を見ておくように指示していた。しかし、蓋を開けてみるとこの作品は空前絶後の大成功であった。
ウィーンでは、1907年11月まで、連続455回にわたり続演された。また、ロンドン始め欧米の主要都市でも上演されいずれもロング・ランとなった。1910年には10カ国語以上に翻訳され、世界中で延18000回以上上演された。
因みに、日本では1908年(明治41年)5月4日、横浜ゲーテ座でバンドマン喜歌劇団により初演されている。
この大ヒットにも拘わらず、このオペレッタに猛反発した地域があった。架空の国ポンテヴェドロのモデルとされたモンテネグロを含むセルビア系の人達の住む地方である。一ご婦人が国外に去るだけで国の財政が潰れるという最貧国扱と自分たちが笑いものとされた感情からであった。
セルビア系の住民の多いトリエステとコンスタンチンノーブルでは「メリーウィドウ」上演に反対するデモがあった。1907年2月のトリエステ・フィロドラマティコ劇場でのレハール指揮の上演では、ハンナの登場の場面から観客が口笛や怒号を浴びせて騒ぎ出し、15分間中断したほか、ロビーでは上演反対の赤いビラがまかれた。警察官が介入して約50名が逮捕された。
オーストリアの評論家の著書などでは誤解だとする向きもあるが、事実はかなり意図的であった。
先ず主役の名前である。公使ツェータの名は、14~15世紀にモンテネグロの一地方を統治した公国の名から採られている。この地方のセルビア人たちは、トルコの侵略と戦って長く独立を保持していた。ダニロは19世紀半ばに主教公からモンテネグロ公を名乗って国を支配したダニーロⅠ世の名に繋がる。ニエグス家は17世紀末に、ペトロビッチ・ニエグスが東方正教会の主教君主に就任して以来、モンテネグロを実質的に支配した有力貴族の家名である。従って、これらの名前は、モンテネグロの人々にとっては、いずれも名誉あるものであった。
主役のダニロとハンナの舞台衣裳もモンテネグロの正装を模したものであった。加えて室内の場面は、モンテネグロの高位の貴族の部屋を模したものといわれている。
これでは、いくら国名だけ語呂合わせのようなポンテヴェドロと替えても、モンテネグロの話ととられても当然であった。
脚本はヴィクトール・レオンとレォ・シュタイン、オペレッタの脚本家としては、当時多くの作品を手がけた実力コンビだが、彼らは既に類似の手をヨハン・シュトラウスの1899年初演のオペレッタ「ウィーン気質」で使っている。そこで採りあげられたのはザクセンの小公国ライス・ロイス・グライスで、そこの首相たちをあたかも田舎者の代表のよう描いた。この場合は、同じドイツ語圏でもあり、多少歴史を踏まえた話しでもあるので問題とはならなかったが、「メリーウィドウ」では、当時のオーストリア・ハンガリー帝国が統治上最も苦労していたバルカンの民族問題に関わる主題を茶化したのは、いかにも無神経であった。当時のウィーンの感覚と、帝国の辺境の人たちとのこうした落差が後のサラエボの悲劇に連なった一因とも思われる。
喜歌劇の、少々笑えない話しでした。

初演時のハンナ ミッツィ・ギュンター (初演時の衣裳による)

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