オペレッタいろいろ その1

オぺレッタは、喜劇ですか?

オペレッタという言葉は、たいていの場合、「喜歌劇」と訳されている。その内容としては、

  1. 喜劇である。
  2. 歌だけではなく、台詞の部分がある。
  3. ダンスが重要な役割を担っている。
  4. 筋書きがハッピーエンド

などが通常上げられている。

 

オペレッタは、19世紀後半から20世紀にかけて、西欧娯楽文化の中心的な存在であったが、とかくオペラ界では二流的評価をされがちであった。

近年まで、ウイーンでも、オペレッタや、ヨハン・シュトラウスの音楽は芸術音楽か、それとも通俗・娯楽音楽か、という議論が真面目にされていた。

これらの音楽が学術的研究対象として取り上げられるようになったのも、比較的近年のことである。その過程では、どうしても学問的な定義が必要になり、上記のような項目が挙げられるようになったのであろう。

しかし、作曲家も脚本家も、このような定義を意識して作品を作ってはいないのではなかろうか。

 

喜劇とは、「筋立てや登場人物が滑稽で観客を楽しませ笑いを誘う劇」(広辞苑)とされている。

確かにウイーン・オペレッタには、コミカーと呼ばれる俳優が不可欠なものが多く、適当な風刺やアドリブで笑いを取ることがあるが、脚本上に決まった笑いが書かれているのは少ないように思われる。

また、その笑いも概して大笑いではない。むしろ、独特のユーモアを含んだエレガントな笑いが多いように思う。

 

唯一笑いをふんだんに取ろうとする脚本は、ヨハン・シュトラウスの名作「こうもり」である。

2幕のアイゼンシュタインとアデーレとのやりとり、また、フランクとのフランス語の会話、第3幕のフロッシュの所作、フランクのそこの抜けたカップに水を注ぐところなど、歌舞伎の形のように決められた笑える場面が設定されている。

これは、このオペレッタの主テーマが、いかに人生に退屈しきったオルロフスキー公爵を笑わせることが出来るかという点にあることからも当然と言える。

しかしそれ以降のシュトラウスのオペレッタ「ヴェニスの一夜」や「ジプシー男爵」では、ここで笑いを取るといった定場面は見当たらない。

 

フランツ・レハールの名作「メリー・ウイドウ」は本質的には恋愛心理劇で、ツェータ男爵があずまやをのぞき込んで驚く場面や、ダニロが外交官夫人達を呼んで扇子の持ち主を確かめる場面など、多少笑える場面は設定されているが、喜劇と言えるほどではない。

 

まして、後の「ロシア皇太子」「パガニーニ」などは、ハッピーエンドでもなく、かなりオペラ的である。

以上のように見てくると、オペレッタを「喜歌劇」と訳すのは抵抗があり、むしろ英語の「ライト・オペラ」から「軽歌劇」とでも訳した方が当たっている。

 

オペレッタの喜劇性に最も着目して生かしたのは、日本の「浅草オペラ」ではないだろうか。

「ベアトリ姉ちゃん」の歌詞に見られるように、すっかり日本的喜歌劇にしてしまった。

出演者から、榎本健一など、昭和の喜劇界で活躍する人材がでたのも頷ける。

 

2008年のフォルクスオパーの公演で、初めて「ボッカチオ」の本格的上演に触れて、えっ、こんなにまともなオペレッタだったのかと思った人は多いと思う。

 

ひとつ確実に言えることは、ウイーン・オぺレッタでは、死ぬ役は出てこないことである。

 

19世紀末に、多くのオペレッタ作曲家が死んだり、創造力を失ってしまった結果、ウイーンのオベレッタ界が沈滞し、オペレッタの殿堂のひとつであったアンデァ・ウイーン劇場が閉鎖に追い込まれたことがある。

そこの看板俳優であり、シュトラウスやミレッカーなどの数々のオペレッタに主演した、アレキサンダー・ジラルディも舞台俳優に転身せざるを得なくなった。

偶々ブルグ劇場での面接の際に「あなたは、これからどんな役をやりたいですか。」と尋ねられたのに対し、彼は答えた。

「私は何でもやります。但し、死ぬ役だけは勘弁して下さい。」

彼は、本当のオペレッタ俳優であった。

 

文:柴山 三明

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